落合陽一写真展『質量への憧憬』に行ってきた。

まず強く感じたのは、これはまさに僕らが大学生の時にやっていたことの延長であり、その世代的な感性が間違っていなかったことの証明に他ならない、ということだった。
僕は落合陽一氏と同世代で、僕らが大学生の頃というのは、デジタルカメラの高画質化と低価格化が進んで誰もが写真を(フィルム枚数を気にすることなく!)楽しめるようになっていた頃だったと思う。もちろんその流れは、デジタルカメラがあらゆるデバイスへの侵入を試みる今日益々顕著であるが、フィルムからデジタルへの移行を経験した僕らは写真を撮るという行為自体の変質を経験した世代なのだと思う。
デジタル化によって実質的にフィルム枚数の制限がなくなったことによってシャッターのボタンは非常に軽くなった。「とりあえず」撮って気に入らなければあとで消去すればよいのだ。この「とりあえず」精神は写真撮影を非常に安易なものにした一方で、「漠然とした美」に対してカメラが向けられることを許容した。

プロはさておき、一般の人々にとってそれまでの写真撮影というのは明確な目的物を必要としていた。心惹かれる何かと出会った時、それの何がどう良いのかまず理解しようとし、そうでなければ構図(排除や取り込み)によって物語化を試みていた。そうした目的化、合理化を経てはじめてシャッターが押されるのである。しかし、「とりあえず」精神に基づく撮影行為において、それの何が良いのかということは後で考えれば良いのであって、「とりあえずよくわからないけど心惹かれたから撮っておこう」という具合に、明確な目的を欠いたまま写真が撮られることになる。こうした変化は、被写体の「対象」→「場」への変化と言い表せそうだ。そして落合陽一氏の写真から受けた印象は『場の記録や記憶』というものだった。「エモい」「をかし」という漠然とした感情表現によってのみ言い表せる写真群だったと思う。彼にしてみれば写真を撮るというのも思考の一形態であって、目の前の光学的な現象を写真に撮ることで、言語化を留保あるいは省略しているだけなのかもしれないと思った。というのも、基本的には知覚の方が言葉よりも速く、過ぎ去って行く現象に言葉では追いつけないことがあるからだ。彼の写真を見て「ノスタルジーを先取りしている」と感じたのもそのことと関係があるかもしれない。ちなみに、写真が思考の一形態であるということと芸術作品であることは全く矛盾しない。ある行為が学問なのか芸術なのかという分類はナンセンスだ。問題なのはいつ学問でいつ芸術なのかということであり、つまり本質ではなく機能の問題なのだ。

ともあれ、彼の写真は(クオリティや洗練度の違いを別にすれば)僕らがデジタルカメラを手にし始めた頃に撮りまくっていた写真の延長にあるもので、ただ当時の僕らはこの「対象」→「場」への知覚の変化を自覚していなかったために、自分の感性が写真ではうまく表現されていないと感じて、そのうち写真を撮ることをやめてしまったのだ(その後、写真に続いてデジタル化の恩恵を受けた映画に興味を移した僕は大枠で見ればあまり変わっていないのだろうけど)。

しかし、ここにも一つ誤りがあった。それは、写真が「自分の感性」の発露であるという誤解である。ここで言う「自分の感性」とは、#ファインダー越しの私の世界 的なものだが、この言葉はどうも背後に近代の言う「確固たる自我」を措定しているような気配がある。つまり、世界を写真によって意味付け、物語化する「私」の存在が前提となっている。しかし、前で述べたようにデジタル写真における撮影行為においては、世界を意味付け、物語化する「私の感性」よりも知覚が先行している。現象とカメラの間に自我が介在しているのではなく、(物理的にも)現象と身体の間にカメラが存在しているのであってその時自我はほとんど疎外されていると言ってもよい。つまり、そもそも写真を通して「自分の感性」が発露されることはないのである。(これはまだ考え中のことだが)感性というのは、集合知のようなもので、個に備わっているというより世代や時代に備わっているかあるいは人間という種に共通の性質として備わっているもので、それを個々人が内面化している(本当は内面化すらしていないのではないかと思うけど、とりあえず内面化しているということにしておく)に過ぎないのではないかと思う。落合陽一氏の写真にはそれを撮っている人間の気配がない。どこか俳句的な良さがあった。それは自己を、世界を意味付ける主体としてではなく、ただシャッターを押す係として捉え、写真という装置に忠実に撮影しているからなのではないだろうかと思った。

世の中は(特に日本人は)タイトルとかその意味が好きだから、「質量への憧憬」というタイトルに目ざとく反応し、展示物の中にある質量性に一生懸命意味を見いだそうとする人が少なくないのではないかと思うけど、そもそも「質量への憧憬」という言葉はデジタルを前提としているのであって、結局どこまでもデジタルの話をしているのだと思った。そして、それはデジタル化に伴われた、撮影行為の変質であり、「対象」→「場」への時代の感性の変化の結実である。少し大げさに言えば落合陽一の「個」展というよりも、もっと大きな時代のうねりを落合陽一に結節させたような展示だったのではないかと思う。

同世代の僕としては、ノスタルジーが現在形となって再び脈動し始めるのを感じた展示だった。僕らの世代の感性はまだ終わっていないどころか、これからなんだな、という当たり前と言えば当たり前のことを当たり前にやっているのだからやっぱり凄いなと思う。あと、コーヒーが美味しかったことと、豆のまま(粉に挽いていない状態で)販売されていたのにグッときた。

2019.2.6

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